カタナの生みの親である横内悦夫氏

多くの名車を送り出してきたエンジニア
スズキの名声を世界に知らしめた一人の名物エンジニアが、亡くなったという知らせが入りました。
横内悦夫さんという方で、スズキを代表する名車カタナの開発、製造に携わってきた技術陣の中心人物です。
特に1970年代から80年代にかけてスズキが世界中のグランプリで勝利を収めた際、レースグループ長として活躍したという歴史はファンにとっては思い出深いものがあります。
数々のスズキの名車を世に送り出してきたエンジニアで、GS750・1000、RG250Γ、GSX-Rといった誰でも知っているような、スズキスポーツの代表格を開発してきました。
宮崎県出身の昭和9年生まれで、昭和32年に当時の鈴木自動車工業に入社しています。
その後、技術者として設計課に入り、特に2輪車の開発に携わってきました。
開発部門から今度はレース部門に移り、昭和49年にはレースグループ長となります。
ロードレースやモトクロスなどで使われるマシンを開発すると共に、チームマネジメントも行います。
横内氏が携わってきた頃のスズキは、まさに黄金期とも言える時代で圧倒的な強さを誇っていました。
レースの勝利はライダーに注目が集まりがちですが、その裏ではこうしたエンジニアとマネジャーの大きな働きがあるのです。
横内氏の数々の輝かしい功績
横内氏はスズキのレースの歴史に間違いなく名を残した人物です。
その輝かしい功績はとてもすべてを挙げられないほど多いものです。
たとえば、ロードレース選手権では世界グランプリの500ccクラスで7年連続のタイトルを獲っています。
その間にライダーが変わっていますので、いかにメーカーとして強いマシンを送り続けていたかが分かります。
また、新しい風をモーターレースに吹き込んだという点でも功績を残しています。
たとえば、70年代は2ストローク全盛期でしたが、鈴鹿8時間耐久で4ストロークのGS1000を送り込み、見事優勝を飾ります。
これによりスズキの4ストロークの強さを世界に見せつけることとなったのです。
こうしたレースの世界での名声だけでなく、市販車の開発という面でも高い功績を残しています。
特にGSX-RやRG250などの名車と呼ばれるモデルを開発して、スズキというよりもバイク自体の人気を世界中で盛り上げた動きの中心に横内氏がいます。
バイク雑誌でも開発エンジニアとしてレースマネジャーとして取り上げられることも多かったので、バイクファンであれば横内氏の記事を読んだことがあるという人が多いでしょう。
定年でスズキを退社してからも、各地で講演会をしたりバイク開発に携わるエンジニアの指導をしたりと、なお2輪車の発展に貢献していました。
こうした活動を通して、横内氏を知るようになった若者もたくさんいます。